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蝦夷農園
たとえ一食分でも汚染のない命の糧を・・・
北海道では、まず、札幌を中心に玉ねぎの栽培が広まりました。そして現在、日本一の玉ねぎの生産地になった北見市には、大正6年に札幌から種を取り寄せたのが栽培の始まりでした。明治30年以降に屯田兵が入植し、農地の開墾後、38年には25ヘクタールの栽培記録があるそうです。
大正に始まった栽培も、明治、昭和を経て徐々に広がり、昭和10年代には100ヘクタールまで面積が増加したものの、太平洋戦争によって「臨時農地管理令」や「農地作付統制規則」などの穀物生産を中心とする食糧生産統制により、玉ねぎの生産は減少を続け、昭和20年には100ヘクタールあった畑も20ヘクタールまで減少しました。その後、戦後の食糧難時代を経て、昭和25年ごろ、ようやくわずかながら生産が増加しましたが、その直後、「タマネギバエ」の発生で大きな被害を受け、今度は作付けの意欲低下が更なる面積の減少につながってしまいます。
昭和30年代に入ると、全国的な食糧事情の好転、さらに高度経済成長による食生活の向上で玉ねぎの消費が増加すると共に、再び北見市を中心に作付けが急増し始めました。生産・集荷・販売を効率化するために生産組合が発足するなど、作り手の意欲増加にも拍車がかかりました。その後も玉ねぎ生産は順調に進み、現在では全国一を誇る生産地となったのです。
その起源について、いろいろな説がありますが、総体的にシルクロードの周辺、中央・西アジアから始まりその後西に広がっていったと言われています。古代エジプトでは、たまねぎを食用としてはもちろん、家の軒先に悪魔除けとしてつるしたり、死者を葬る際、棺の中に一緒に入れるなど、神聖なものの象徴として使われることもあったそうです。また、あの壮大な古墳、ピラミッドを作るのに用いられた20万人の建設労働者に対して、食料としてはもちろん、賃金としても玉ねぎが支払われていました。
中央・西アジアから西に広がった玉ねぎは、ヨーロッパで今日の玉ねぎの2大派閥、「甘玉ねぎ」と「辛玉ねぎ」に分かれることになります。南ヨーロッパ(スペイン・フランス・イタリア等)では生で食べられる辛味の少ない「甘玉ねぎ」が、東ヨーロッパ(ルーマニア・ユーゴスラビア等)では刺激の強い「辛玉ねぎ」が作られました。
玉葱の歴史
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ヨーロッパ各地で広がっていった玉ねぎは、「大航海時代」の16世紀ごろアメリカに持ち込まれ、そこでさまざまな品種改良が行われます。そしてその後、アメリカから日本へと渡ってきたのです。
