







蝦夷農園の歴史
しかし、この方式の経営は生易しいものではありませんでした。活力を失った畑に人工栄養剤の化学肥料や農薬を“注射”しないので収量はガクンと落ち、ひたすら除草作業との戦いの日々が続きます。肥料や農薬を買わないので農協はいい顔をしないし、周囲の目も冷たいものでした。
頑固なまでに信念を貫き通し少しずつ周りから認められるようになるのに実に10年という月日が流れていました。初めて蝦夷農園の野菜を買ってくれたのは、実際に蝦夷農園の農作業を手伝っていた作業員の人でした。−『普通の畑に農作業に行くと首筋や手にしっしんができる、北原さんのタマネギは農薬を使っていないと一目で分かった。少し高いけど安心して食べられるのでずっと買っている。親類にも分けてあげています。』
![]()
このようなファンが口コミで少しずつ増え、昭和49年の春、蝦夷農園に朗報が舞い込みます。−『大量に引き受けるから、取れた分だけ出荷してほしい』 消費者運動のリーダー、札幌の市民生協からでした。これを機に親しい農家に声をかけ、同年から6人のメンバーが蝦夷農園のクリーン農業に加わります。
こうして札幌市民生協のバックアップが大きな支えとなって蝦夷農園のクリーン農業は発展を遂げていきます。そして先代の残した【たとえ一食分でも汚染のない命の糧を…】という農業哲学は2代目へと引き継がれ、オホーツクの太陽が照りつける北の大地の蝦夷農園の土の中では今日も微生物やミミズたちがその生態系を営んでいます。
“農薬やめ苦闘の10年”とあります。昭和50年の北海道新聞にとりあげられた先代の頃の蝦夷農園です。先代は明治30,31年熊本県から北海道に入植した屯田兵の3代目。『祖父が残した豊かな土地がこの20年間でミミズも住めない死の耕地になってしまった。この死んだ畑の半分でも生き返らせ子孫に残していきたい…』と北の大地で農薬・化学肥料をいっさい使わない有機農業を始めたのは昭和36年から。当時、農村地帯では全国的に農薬を飲んでの自殺や事故が相次ぎ農薬の管理が問題になっていました。実際に近所で起こった農薬服毒自殺未遂事件が引き金となって、蝦夷農園は有機農業を始めます。公害や環境汚染、残留農薬といった言葉もない時代でした。
有機農業への第一歩は、農薬・化学肥料で衰えた地力の回復-土作りでした。除草した雑草は畑にそのまま寝かせ、バクテリア、菌類を育て土に還元し、地力培養に役立てます。玉葱の収穫後はえん麦をまき雪が降るまでに30〜40センチに伸びたえん麦をそのまま越冬させ肥料にします。春耕の前に山林から落ち葉を拾い畑にすきこむのです。この作業を毎年繰り返しました。


since 1961
蝦夷農園
たとえ一食分でも汚染のない命の糧を・・・